夢と目標

その年代ごとに夢はありました。小学生の頃は野球ばかりしていて、当然のようにプロ野球選手になりたいと思っていました。阪神ファンなのでもちろん阪神でプレーすることが夢でした。どうやったらドラフト会議で指名してもらえる選手になるだろうか、そんなことを考えていました。

しかし、小学6年生で肘を痛めてドクターストップがかかってしまい、野球は続けられなくなりました。当時はもうキャッチボールをするだけで肘に激痛が走っていました。代わりに夢や憧れをもたらしたのはモータースポーツでした。同級生にF1好きな友達がいて、その影響もあって中学に入る前くらいからF1をテレビで見るようになりました。のめり込むようになるのに時間はかかりませんでした。同時に日本国内でも自動車レースをしていることを知り、どうやったらF1ドライバーになれるのか等を調べるようになりました。

ただ、見たり調べたりはしていたものの、ドライバーになろうとは思いませんでした。私の視線は車の周りでせわしなく動くメカニックや、メカニックに指示を与えるエンジニアやチーム監督の方に向けられていました。中学の時の技術の授業では、先生とエンジンの話等をよくしました。中学の面談では将来の夢にモータースポーツ関係の仕事と書きました。

しかし、それを知った親からは散々罵倒されました。「モータースポーツなんて不良のまま大人になった奴らのやることだ」と訳のわからないことを言われたことをはっきりと覚えています。「そんなことより経済学部に行っていい会社に就職しろ」とも言われました。前述の通り、夢や目標を話せば嘲笑われ、逆らえば暴力が待っているだけでした。理数系に苦手意識のあった私は結局夢を目標に変えることなく、高校ではなんとなく文系を選び、モータースポーツエンジニアの道は閉ざされました。

残された夢は大学でスポーツの勉強をすることと、陸上競技でインカレや箱根駅伝を走り、その後はマラソンに挑戦することでした。しかし体育学部やスポーツ科学部といった進学希望は親に認めてもらえませんでした(「5000mの生涯ベストと浪人時代」参照)。もはやなんのために大学に勉強しに行くのか、その辺の目標は見失ったままでしたが、陸上だけは続けたかったです。でも大学に入った時点で私はかなり疲弊していたと思います。これも前述の通りですが、鬱がひどく、不眠症を併発したのも大学生になった頃からです。

最後に私が夢を見たのは大学4年時のこと。別項にもありますが、A.C.ちがさきという陸上競技のクラブチームを作ることでした。詳しくはその項に記載してありますので割愛しますが、誰もが気軽にスポーツを楽しむことが出来る場を作りたかったです。そしていつか鹿児島のSCCと交流戦が出来たら、と思っていました。でも大学卒業してからは完全に鬱がひどくなっており、1年持たずにクラブは無くしてしまいました。情けなかったです。これ以降、私は夢や目標を持つことはなくなりました。もう何もしない、そう決めました。そう決めたというより、出来ないです。

結局のところ、私の人生は、夢を目標に変えることも、目標に向かって努力するということも出来ませんでした。勉強や努力はこうした原動力が突き動かして行うものだと思います。必要に迫られてとか、仕方なく、という勉強や努力の仕方はしたくなかった。そんなものは罵倒され殴られ続けた受験勉強だけで十分でした。10代、20代、何にも挑戦できなかった。それが死ぬほど悔しい。失敗も成功も何も経験していない。空虚でした。挑戦して失敗した上で夢を諦めるならわかります。それが出来ればどれだけ幸せだったことか。例え失敗しても次の目標や道筋が見つけられるはずです。それが経験で得られる財産、頭の中の引き出しというものだと思います。私は40歳を過ぎた今も目標がなく、無駄に生きています。サッカーや野球、自動車レースを見に行って充実しているとか言われることがありますが、そんな余暇の話をしているんじゃないんです。自分の人生を賭けて何をしたか、ということです。軸になるものが何もなかった。


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