マラソンへの憧れをくれた人

若い方々はご存知でしょうか。早田俊幸という1990年代に活躍されたマラソン選手を。私は社会人になっても、「マラソンを走るまでは陸上はやめられない。」と思いながら走っていましたが、その動機付けをくれたのが、この早田選手なのでした。

初マラソンで2時間10分37秒(当時初マラソン日本人歴代2位)、トラックでも世界選手権10000m10位、駅伝を走れば前に走る選手を必ず仕留める「ハンター」の異名を持つ、スピードランナーでした。ダイナミックでリズミカルなフォーム。全身から放たれるスピード感に、期待は高まりました。ハーフマラソンでは一時日本最高記録を持っていたこともあります。当時中高生、大学生だった私は、マラソンで早田選手が走るたびに、最後にスパートを仕掛けて勝つ早田選手を想像しては、わくわくしながらテレビにかじりついていました。

しかし、マラソンに限って、早田選手はその俊足を披露することができませんでした。レースでは必ず先頭に付けるも、30km過ぎに失速を繰り返し、アトランタ五輪選考レースも途中棄権。期待のホープは「35kmまでの男」と揶揄されるようになっていました。試行錯誤の繰り返しから、練習法、所属先も何度か変え、無所属のまま失業保険を切り崩して走り続けたこともありました。1997年の福岡国際マラソンで、当時の日本国内最高記録、日本歴代4位となる2時間8分7秒という記録で走り、復活を印象付けたものの、シドニー五輪選考レースではまたも脱落。2003年に引退しました。

私が早田選手に"はまった"のは1994年の東京国際マラソン。前日の雪が残る東京、早田選手は22km過ぎでスパートをかけます。結果は37kmで捉えられ、3位になりますが、この時の35kmまでの独走は、私に強烈な印象を残しました。前年1993年の福岡国際で、早田はやはり35km過ぎで失速。マスコミからの「勝負弱い」「仕掛けられない」といったバッシングを受けていました。そのため、このレースには早田選手の意地とプライドを見ました。

マラソンを志すにあたって、私は大活躍した選手にあこがれたのではなく、決してマラソンでは自身の納得する成績を残していない早田選手にあこがれました。早田選手本人が聞いてもあまりうれしい話ではないかもしれません。でも、所属先を転々とし、駅伝でもトラックでもなく、不器用ながらマラソンにこだわった早田選手に、私はいつしか自身を重ねて見ていました。早田選手は結局、マラソンで1度も勝つことなく引退しました。でも、わくわくする期待感を持った選手は、今でも早田選手以外にいません。

●所属
県岐阜商高→鐘紡→岐阜陸協→アラコ→熊本陸協→ユニクロ→本田技研

<自己記録>
●トラック
3000m 7分53秒22(鐘紡) 1991・7・15
5000m 13分30秒11(岐阜陸協) 1997・5・10
10000m 27分53秒12(鐘紡) 1995・8・8

●ロード
ハーフマラソン 1時間00分42秒(鐘紡) 1996・1・21
30km 1時間29分28秒(鐘紡) 1993・2・28
マラソン 2時間08分07秒(アラコ) 1997・12・7


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