継走〜衝き動かすもの(1)

今週末の土曜日には、茅ヶ崎地区中学駅伝が行われます。私も2年生、3年生の時に走りました。当時は駅伝とは言わず、茅ヶ崎地区中学校継走大会という名称でした。そのレース、特に3年生の時の継走大会は、私の経験したレースの中で、一番思い出に残っているレースです。今回はちょっとその辺を振り返ってみたいと思います。今回の文章は、当時の大会公式資料を元に、2009年にmixiの日記で公開した内容を加筆修正したものです。※氏名は名字まで。mixiではイニシャルで記しましたが、もう20年以上前のことだから許して。

●弱かった私たちの学年
中学生の時、私は2年、3年と地区継走大会、県駅伝に出ることができました。母校は長距離が割と盛んで、後に恩師のいる学校は全国中学駅伝に出たほどです。私が3年になった時点で、母校浜須賀は確か7年か8年連続で県大会出場がかかっていました。私たちの学年は選手層が薄く、1学年下の後輩たちにおんぶにだっこな状態でした。地区陸で1点も取れなかったことから、当時の3年生のへたれっぷりが見て取れます(2年生は取っていた)。

●授業中にシミュレーション
そんな中、10月半ばに行われる茅ヶ崎地区中学継走大会に向けて、私は危機感を募らせていました。当時、記録の鬼と化していた私は、今年のトラックレースの結果、去年の駅伝の結果を見て、授業中にノートの端にライバルと目される学校のオーダーを書き連ねては、レース展開をシミュレーションしていました。県に出られるのは上位2校。私は4校にチャンスがあると見ていました。浜須賀、松林、梅田、鶴が台、です。予想したレース展開は、エースのいる鶴が台、浜須賀が序盤先行、層の厚い松林、梅田が追いかけてくる、というものでした。

●メンバー選考
当時私は貧血で、練習でも試走でも、記録は去年と同じくらい(3000mをかろうじて9分台:ベストは9分47秒、5000mを17分05秒だがそのタイムでは走れなかった)でしか走れない状態でした。いつまで経っても調子の上がらない私は、大会約一週間前に行われた2000mのタイムトライアル後、一度Bチームに落とされることを示唆されました。メンバー選考の対象となったのは私と2年生の松野。先生の配慮で翌日に再度2000mタイムトライアルを練習後に1人で行い、そこで6分40秒を切ったので、なんとかAチームのアンカーを任されることになりました。薄暗い校庭に、部員がみんな残って応援してくれたのを今も覚えています。

●人気投票
母校では駅伝が近付くと、部員によるメンバー入りの人気投票?を行います。駅伝メンバーには誰がふさわしいか、誰を選ぶべきか、名前を1チーム分の6人まで書きます。私は上記のとおり、3年生になってから貧血でほとんど走れていませんでした。しかし、その投票ではその他の上位候補と変わらない得票差で上位6位に入っていました。とても嬉しく、励みになったことを覚えています。今思うと、そういう意識付けとか、大会へのモチベーションの持って行き方とか、うまい先生だったと思います。 結果、私はAチームのアンカーを走ることになりました。

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10月に入っても私の授業中のシミュレーションは続きます。緊張感は日に日に増していきました。どう考えてもアンカー勝負になることが想定されたからです。とにかく怪我と風邪には注意して、鉄分とビタミンをよく取って、ということだけを心掛けました。試合前に渡されたメンバー表とコメント。私の欄には「最悪の場合2位まででいい、気楽に行け。」と記してありました。(続く)


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