ハコネ駅伝予選会不正出場未遂事件

箱根駅伝予選会。私は高校生の時から、当時の予選会コースだった大井埠頭に見に行っていました。当時はまさか自分がこれに振り回されるなんて思っていませんでした。

■予選会に出るには
箱根の予選会に出るには5000m17分00秒00以内の記録を持つ選手を10人以上揃えることが条件になっていました(当時)。この参加条件が出来るまでは、箱根を狙っていない大学も、長距離以外の選手を総動員して10人揃えて出てきました。テレビ放送されることもあって、本気で箱根を狙っていない大学の長距離ブロックも年間最大の目標に置いて参加。まあ、本気度が違いますのでお祭りみたいなもんですね。私の母校も例外ではありませんでした。正直なところ、私は本気で狙っていないなら出たくはありませんでした。それだけ箱根にはあこがれていたので中途半端なことはしたくなかったです。まあ、でも長距離ブロックが目標に据えてまとまるのなら、それはそれで個人記録の挑戦として参加してもいいとは思っていました。

■腐っていた母校陸上部
でも、うちの大学の腐っていたのは、そんなところではありませんでした。私が3年生の時のことです。その年は春の段階で5000m17分以内で10人揃っていませんでした。予選会にエントリーするには、記録を出した証拠として、試合で発行される記録証明書を持参することが義務付けられています。そこで部員たちが考えたのが、日体大記録会などの記録会で、速い選手を遅い選手の名前で替え玉出走させて、記録証明書を発行してもらい、10人分揃えてエントリーするという方法でした。長距離部員だけではありません。監督、コーチもこれに賛同してました。さらには偽名で参加条件を突破させた選手は、本番では走らず、そこでもさらに替え玉出走させるという手も取ってました。それも、最後の手段としてではなく、4月からそれを前提として話を進めていたのでした。ちなみに私は17分以内では走ってました。私は、どんなに自分が遅くても、せこい真似だけはしたくありませんでしたし、箱根に関わる全ての人へ冒涜するような行為は許しがたいことでした。ほんのわずかな選手としてのプライドでした。こんなに意識の低い連中のために走りたくなんかなかったです。でも、部内で反対する人間は私だけしかいませんでした。本気で部活を辞めたかったです。一緒に練習する気も失せて、鬱も重なった3年生だった当時、私は全然走れなくなっていました。「自分が走れていないからって反対しているんだろ?」とか言ってくる馬鹿な先輩もいました。殺してやりたかったです。

■説得
当時私は箱根駅伝を主催する関東学連の幹事。私の立場からしても、そんな不正行為は黙って見過ごせません。逆に言えば、私の立場のことを考えてくれる部員は長距離ブロックには誰もいないということでした。エントリー期日直前の日体大記録会の日、私は一応見に行きました。試合後、替え玉出走させてタイムを切ったことを確認した後、みんなが集まって私の所に来ました。「なんとかならないか?」と。味方のいない私はその時過ちを犯します。もうエントリーだけさせちゃって、私は退部しようかな、と考えてました。でも学連の仕事は辞めたくなかったです。学連幹事は加盟校の登録者でないとなることが出来ないので、やっぱり安易に退部はしたくないとも思いました…。でももう説得は無理だと思っていました。集合の時に、「持っていきます。」と言いました。言ってしまいました。ですが、この発言をわずか数秒後に後悔することになります。替え玉出走の首謀者である部員が、直後にこう言いました。「今日は、俺が陸上をやってきて一番うれしい日です。」。これを聞いた瞬間、私の取った行動は間違っていたと激しく後悔しました。私がどれだけの思いでいたのか、わかってないし、わかろうともしていない。屈辱を感じたまま、日体大から家路につきました。途中、経緯を同級生の幅跳びの選手に話したら、こう言われました。「意識の低いやつらはそういうことを考えるんだよ。俺は絶対しないけど。」。これを聞いてやっぱり納得がいかず、エントリーの前日、大学の陸上部長の先生の研究室に長距離ブロック全員を集めて話し合いをする時間を取ってもらい、説得しました。授業も全部サボって6時間説得を続けました。結果、なんとか不正エントリーは回避しました。でも周りからはかなり顰蹙(ひんしゅく)をかいました。「お前がどれだけ長距離の雰囲気乱していると思ってるの?」「長距離ブロック長としてお前は何をしてきたの?」等。不正に加担することがブロック長の役目だとは思わない。卒業した時の追いコンではコーチから「お前は卑怯者だ。」と罵られました。卑怯な手を使ったのはそっちだろう、そんな一言も返せませんでした。ちなみに学連幹事にこの話をしたら、早稲田の同級生に思いっきり馬鹿にされました。本当に馬鹿だよな。ちなみに一連の騒動から、ストレスで胃薬なしでは生活できなかった私。それを知っているのは短距離の数名だけでした。32単位さえ取れば4年時は卒業論文を残すのみだったのですが、その年、私は結局鬱と神経性胃炎の影響で16単位しか取れませんでした。もうボロボロでした。夜は思考が止まらなくて寝付けない。朝は起きられない。授業も出られない。走れない。

■終わった
予選会が終わった後、長距離ブロックだけで飲み会がありました。一連の騒動の反省会と今後に向けて、というのが表向きのテーマでした。本当にくそつまらない飲み会だったのを覚えています。話もせず、私はひたすら酒をあおり続けました。飲み会が終わった後、同級生の短距離たちの選手が集まっていたカラオケに合流。そこで私は泣き続けました。私の同級生は私含めて3人と少なかったのですが、2人は関東インカレに出ています。「俺だけ出られない。」そんなことを言って泣きに泣きました。こんな下らないことに付き合わされ、振り回されている自分が惨めで仕方ありませんでした。本当に情けなかったです。最終的には自力で立てないほど泥酔し、夜中に部室に担ぎ込まれました。それからというもの、私は屈辱を晴らしたい一心で練習するようになりました。私の作ったメニューは誰も後輩たちはやりませんでしたので、1人での練習です。母校の中では、ですが、誰よりも走り込みました。神経性胃炎と鬱と不眠症を併発していた影響で、大学の授業は上述の通りほとんど出ていません。就職活動もしませんでした。普通の大学生から見たら滑稽なんでしょうが、就職活動をする気にもなりませんでした。将来の夢や目標を見失っていた私は、大学で陸上をやる、という最後の目標にすがるしかなかった。このまま何の結果も出さずに学生生活を終えていいのか。ねじれた右足はそのままでしたが、無理やり走りました。しんどかったです。でももう走ることにすがるしかなかった。関カレのハーフマラソンに出たい。東京国際マラソンに出たい。どちらも標準は高いですが、そこを目指しました。無調整で出た神奈川ハーフでは1時間14分台でしたが一応自己新。30kmのペース走も3分50秒/kmで出来ましたし、1000m×10本(リカバリー60秒)も3分10秒台で出来ており、心拍数も1分間50くらい。5000mでは多分15分は出るだろうと思っていました。そしたら、ハーフを走った直後に風邪を引き、運悪くこじらせてしまい2週間も寝込んでしまいました。狙っていた立川ハーフも出られず、集中切れました。大学生の陸上はそこで終わりました。最後まで誰も見返すことが出来ませんでした。今思い出しても最後に「卑怯者」と言われただけです。めちゃくちゃ悔しい。

■がんばれ後輩たち
一連の騒動から時が経ちました。今、私の母校は長距離の推薦枠も確保され、こんなふざけた手を使わなくても予選会は出られます。寮も完成し、箱根本戦も本気で狙っているようです。最近はどのブロックでも自己新を出す選手が増えてきて、雰囲気もだいぶ変わりました。私の頃は自己新を出す選手なんてどの種目でも稀でした。高校や中学ほど頻繁に顔は出していないので、知っている後輩も少ないのですが、とにかく競技に納得行く形で取り組める環境であり続けることを祈ります。何より、当時のような卑怯な負け犬はいないはず。実力でいつか箱根駅伝出場を掴み取ってほしいと思います。


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