5000mの生涯ベストと浪人時代

あえなく浪人することになった私。それでもまだ大学で陸上をすることはあきらめきれませんでした。ですが、この1年間は本当に苦しかったです。横浜の河合塾に通うようになりましたが、勉強道具と一緒に走るためのウェアやシューズも一緒に持って行きました。予備校から茅ヶ崎に帰ってくると、家には戻らず、茅ヶ崎市の総合体育館に行き、そこのロッカーを使わせてもらって、隣の中央公園等を中心に2時間のジョギングをしていました。この1年を大学で陸上するための土台固めにしようと思い、ひたすら長い距離を走り込んでいました。

週末になるとサイクリングロードで20kmのペース走。インターバル等のスピード練習は1人ではなかなかできず、ほとんどやりませんでしたが、陸協登録もして、7月と8月の平塚ナイター記録会にも出ました。どんなに親から文句を言われようが、走ることだけはやめませんでした。ちなみにこの8月の平塚ナイター記録会で出した16分24秒5という記録が、私の生涯ベストとなりました。この時は、この記録を大学で破ることが出来ない等とは夢にも思いませんでした。ナイターとはいえ、真夏のレースでスピード練習もろくにしないでベストが出たことで、高校3年間は無駄にしたが、まだやれると思っていました。

進学については、さすがに早稲田大学だけ受験するわけにはいかないので、スポーツを社会科学の側面から勉強したかったことから、体育大学等の進学を考えるようになりました。しかし、親にはその進路は認めてもらえませんでした。「体育学部に行って体育の教師にでもなるつもりか?」と。発想が貧困な奴らはそうとしか考えていなかったようです。偏見もいい所です。結局入試の願書を買う頃になっても説得はできませんでした。夢を語れば嘲笑われ、逆らえば殴られる、その繰り返し。包丁を突き付けられたことも数えただけで3回ありますし、夕飯の前に散々罵倒された後、「お前はそれを食べるな!」とかわけのわからんことを言われたこともありました。さすがにこの時は悔しくて泣きました。何のために大学に行くのか、わかりませんでした。ただ、もう一つの「大学で陸上をやる」ということだけが支えでした。

しかし、追い打ちをかけるように、年末に右足の足底筋を故障してしまい、ほとんどの体育学部の実技試験が受けられなくなってしまいました。そこで、社会学部系の学部を中心に受験。世界史に一抹の不安を感じていましたが、なんとか関東学院大学、文教大学、母校にひっかかってくれました。私は家にいる時間を少しでも少なくしたかったので、一番遠い母校を選びました。箱根を考えれば関東学院だったと思います。でも私は疲れていました。よくこんな状態で大学に入れたと思います。奇跡ですよ。センター試験前には家で挑発を続ける弟をボコボコに殴って、自分の右手薬指も骨折。ギブスを付けたまま入試は受けました。ひどく荒んでいました。


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