よく覚えている景色

日大藤沢高校に入学。学校にはなんとか通っていましたが、楽しい高校生活なんてものとは無縁の生活でした。入学しても気分を切り替えられなかった私は、引き続いてなんでこんな学校にいるのか…としか考えられませんでした。友達もできず、親からの罵声と暴力はエスカレートし、1年でストレスから自律神経失調症になり、神経性胃炎を併発しました。高校生から胃薬を飲まなければならない。その時点でおかしいと思うべきでした。でも私は「自分だけが苦しいと思ってはいけない。」としか思いませんでした。考え方が下手くそでため込みやすいのはこの頃から顕著になりました。上手く言えないのですが、「絶えず苦しみに身を置いていないと、楽になった時にまた落ちるのが怖くなる。」と考えていました。「辛い」、その一言を誰にも言えませんでした。

中学から始めた陸上競技を高校でも続けました。陸上部は県内でも強豪で、部内の雰囲気も良かったです。が、日藤にいることに納得がいかない私、部員とも馴染めず、その上1年生の春に早々に疲労骨折をして走れなくなります。その後も貧血になってしまったことから、中学時代に1分差をつけて勝っていた選手に、逆にトラック2周差をつけられてしまうことになりました。記録は伸びるどころか、5000mのタイムは中学時代のベストよりも2分遅いタイムでしか走れませんでした。藤沢市選手権の5000mでは最下位にもなりました。拍手を受けてゴールするのがこれほど屈辱的なものだと初めて知りました。試合なんか出たくなかった。練習が出来ていないんだから。とある大会の後、あまりに情けなさ過ぎて一人で競技場裏で泣いていました。手には退部届を握りしめていました。コーチと相談した結果、なんとか退部は思いとどまりましたが、毎日死ねとかゴミとか屑とか言われて殴られて、そんな状態で勉強、部活、何が出来る? 何も出来やしないよ。

胃炎のせいで授業中も吐き気が止まらず、授業をまともに聞いていませんでしたし、テスト期間中も勉強する気にもならず、成績は常に400番台後半でした。そんな中、一つの希望は大学に進学して箱根駅伝を走ること。自分のような実績のない選手でも受け入れてくれる早稲田大学競走部にとりわけ憧れていました。しかし、陸上の記録が伸びないだけでなく、肝心の学業の成績があまりにも無残だったので、高校の面談でもボロクソに言われて終わりました。悔しくて泣きました。「夢なんか見てるんじゃない」と言われましたが、夢でも見なければ生きていけませんでした。

よく覚えている景色があります。高校1年時の放課後、部活に向かう途中で野球部のグラウンド脇を通るのですが、その時に必死に練習している野球部員の姿を見ながら、ふと思いました。「このままいったら俺は駄目な人間になるな。」。15歳でこんな風に考えてしまうのはおかしいかもしれませんが、確かに私はあの時そう思った。そしてその予感は的中します。結局、陸上競技では3年の秋に県駅伝に出るのが精いっぱい。その後は日大に進学することもできず、浪人することになりました。日大の附属校に行っておきながら進学できなかったことで、親からの罵声と暴力はさらにエスカレートしました。


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